科学と祈りから生まれ落ちた火へ

    小学生くらいの年頃の少女が碑の前で祈っていた。

「これはぼくの叫びです/これは私たちの祈りです/世界に平和にきずくための」

    何十年も前に設置された追悼の碑には容赦なく雨が振り下ろされていた。激しい雨に打たれる碑の横に並んで写真を撮ってもらう観光客へ、指先がかじかんでいるのを確認しながらそっと視線を向ける。彼らが平和をきずくための大工とは到底思えなかった。もし未だに争いと憎しみの連鎖が止まないこの世界に平和をきずくことができる人がいるならば、万が一にもそんな人がいるとするならば、それは「観光名所」に陣取る観光客たちでも、それを冷ややかな目で見つめる私でもなく、微動だにせず祈りを捧げ続けるあの女の子だけだ。

    女の子はやがて胸の前で組んでいた手を振りほどき、足元に逆さに置かれた自らの傘を手に取ってから、離れた場所にいた母親へと駆け寄っていった。追悼碑の遥か向こうに見える炎は雨の中でも潰えることなく、私たちをじっと見つめ返すように揺らめいていた。

Daisy! I'm half crazy, All for the love of you

「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」創世記3:4-6

 

 

上記の引用は人間が神の園を追われた原因を記した創世記の有名な場面である。わざわざ顛末を説明されなくとも多くの人がその話を知っていることだろう。

 

何故アダムとエバは蛇に唆されるままに、神に食べるのを禁じられていた実を食べてしまったのかが長い間私には不思議でならなかった。神に似せられて創られたはずの人間が何故神から遠ざかってしまったのかという(信仰上の)疑問に対する説明として必要だったからというのなら理解できるし、他にも神の庇護に対する人間の反逆だとか、あるいはもっと他の神学上の説明をされたとしても理解できるだろう。つまり物語の筋としては納得できるのだ。

 

しかし、もし本当にアダムとエバが存在して、禁じられていた木の実を心から欲して食べたのだとしたら?何故彼らは神の園という絶対的な安楽を天秤にかけたうえで、実を食べたのか。今までの私には理解できなかったが、今の私には実感を伴って理解することができる気がする。今この場にその実があったならば、私は食べてしまうかもしれない。

 

話は変わるが、ここ数年の間ずっと私には疑問に思っていることがある。恋愛についてだ。恋をする気持ちとは一体どんなものなのだろう?私は自分が恋をしたことがあるかどうかさえ分からない。

 

街を歩けばカップルにすれ違い、喫茶店に入れば隣の席の女性が「あの人好きなんだけどさ~」なんて息を吸うくらい簡単に話をしている。恋とは重力のようなものなのかもしれない。自分の意では逃れられないくらい強く惹きつける力があるのに、地球人は普段その存在を特段意識することもない。だとすれば、私は愛する故郷の星を見つけられず彷徨う宇宙人といったところか?

 

そんな私を見て、「恋が分からなければそれでいい」という人もいる。確かに、自分が何とも思わなければそこで終わってしまう簡単な話で、わざわざこんな記事を書いてインターネットの片隅に流すなんて行為は必要ないのだと思う。私自身も昔は、世間の恋愛と自分の抱く「愛」が異なっていても構わないと考えていた。しかし同時に、そうやって簡単に割り切れない自分がいることにも気付いたのだ。私は多くの人がごく当たり前のものとして受け入れている恋愛をしてみたい。

 

私は恋をしている人間に憧れているのだと思う。恋をしている人には強烈な情が宿っている。好きな人のことが頭から離れない。好きな人に振り向いてほしい。好きな人には私だけを見ていてほしい。たとえ私と添い遂げることが叶わくとも、好きな人には幸せになってほしい。幸せの原因にも苦しみの原因にもなる、これ程までに強い感情と引力を私は持っているのだろうか?いや、きっと持っていない気がする。だからこそ恋をする人の気持ちが気になって仕方がないし、羨ましくもあるのだ。自分が体験したことのないものへの憧憬と好奇心と羨望が湧き起こっている。

 

それにもし私のことを好いてくれる人がいたならば、その人に対して同じ思いで応えたいという気持ちもある。他者への慈しみと恋は違う。でも、誰かから与えられた恋心には恋心で返したいなんて考え方をしている時点でもう違う気もする。恋とは誰かにお返しをすることではなくて、自由気ままに外側へと働きかける力なのだ(ろう)から。

 

今の私ならきっと、神の園の禁じられた実を食べるだろう。理解できないものに対する好奇心と憎しみ、狂おしい程の憧れを溢れさせながら食べる実はどんな味がするのだろう?

戦争証言にAIを用いるという話

今日放送(8/4)のTBS番組の報道特集で、アメリカでは戦争証言にAIを用い始めているという話がやっていた。映画「アバター」などでも使われた360°全方位から撮影できるようにドーム状に設置されたカメラで撮影して作られた、戦争証言者のホログラムや映像と質問形式で対話しながらホロコーストの体験を聞くことができるというものらしい。思い浮かんだ疑問をホログラムに質問するだけで、その質問に適した内容のホロコーストの証言を聞くことができ、番組内での質問のやり取りはかなり自然なものに見えた。

 

番組内では、ホログラムに対して「収容所で最も屈辱的なことは何でしたか?」などという、はい/いいえで答えられない質問もされていたが、ホログラムは実際に生身の人間がそこにいて答えているかのように話していた。双方向の対話が成り立っている裏にはAIが関係している。というのも、質問に対して最も適していると思われる答えがどれかをAIが判断し、AIによって選択された答えの音声がホログラムを通して再生されているのだ。答えの音声というのは、予め資料作成者側から出された1000個ほどの質問に戦争証言者が答えながら戦争体験を語っており、その際の音声が録音されているというわけだ。

 

AIが質問に対する最適の答えを選んでいると言ったが、戦争証言を基に、AIが新たな答えを作り出しているというわけではない。AIは録音された文章を一文ずつバラバラにした後にそれを再構成して答えを出すのではなく、証言者によって語られた答えのひとまとまりを答えとして出しているだけなので、AIによって「新たな物語の証言」が語られることはないとシステムの開発者たちは語っていた。

 

生身の声を持つホログラムを通して対話するということで、今までのような戦争証言の映像よりも生々しさやリアルさが生まれたということは、戦争証言を聞く側にとってはかなり喜ばしいことだろう。古ぼけてしまった映像の中で戦争体験を語られても、やはり自分たちとは違う、遠い時代の出来事としてしか捉えられないのに対して、本物さながらのホログラムは私たちが生きている時代の延長線上にある時代に生きていたのだと嫌でも感じさせる。そして、語られる凄惨な体験がいつでも私たちに纏わり付いているということも…。

 

その一方、このシステムにはまだ問題もある。それは、質問に対して適切な答えを返す際の精度だ。このシステムは既にアメリカの博物館で使用されていて、博物館に訪れた人は実際にホログラムと対話することが出来るのだが、AIが上手く返答できるように、観客側から出された質問を博物館の人が意味を変えずに言い換えるということを行っている。やはり自然言語処理の関係上、AIが適切な返答をできない場合もあるようだ。だがこれから学習することで、今までは適切に答えられなかった聞き方にも対応できるようになっていくので、時間をかければそういった問題も解決されていくだろう。

 

番組の最後に広島平和記念資料館の館長が出てきてAI利用の話をしていたが、このシステムを使用することにはあまり積極的ではない様子だった。被爆者として証言しているという女性もシステムの利用には反対していた。

 

確かに戦争証言の映像には一方的に証言者が語るからこそ伝わってくる、迫力や言葉の陰に潜む感情があるように思われる。話すテンポやリズムも一種の戦争証言であると言えるかもしれない。しかし、やはり双方向にやり取りできるシステムというのはとても魅力的であるとも思う。証言者の数が減ってきている現状、こういった方法で証言を残していくというのも必要だと思っている。

Welcome to ようこそ「おっさんずラブ」

私は今、テレビドラマの「おっさんずラブ」にはまっている。と言ってもまだ第4話と第6話しか観ていないのだが、それでもずっと「おっさんずラブ」の事を考えずにはいられないくらいなのだ。それ程にまで強力に惹きつけるものは何なのだろうか。

 

まずは勿論、登場人物やそれを演じる俳優陣の素晴らしさが挙げられるだろう。登場人物たちの設定は、ともすればありきたりの「テンプレキャラ」になってしまいそうであるにもかかわらず、キャストの演技力によってドラマ上の人物たちは実際にこの世界のどこかで生きているかのように画面上で動き、存在している。また、そういった人物造形をスムーズにこなせるようにしている演出や脚本も素晴らしいのだろう。

 

しかし私の好きなところはそれだけではない。「おっさんずラブ」は恋愛ドラマであるはずなのに、恋愛を恋愛としてパッケージ化して売り物にしていない。そこに様々な人をぐいぐいと惹きつけてのめり込ませる魅力があると思うのだ。

 

おっさんずラブ」の主人公、春田創一は最初は異性好きのヘテロセクシュアルとして登場する。彼が好きなのは「ロリ巨乳」であって、決して彼が毎日職場で目にしている漢気ある先輩や可愛らしい顔つきをしたエリートの後輩が好きなわけではない。彼は女性からモテない日々を送っていたが、先輩である黒澤部長からのアプローチによって日常は様変わりし、それを機に「おっさんずラブ」の特徴である男性同士の恋愛が始まっていく。

 

だが注目しておきたいのは、春田は黒澤からのアプローチをすぐに受け入れるわけでもなく、あくまでも彼は異性のみが好きなヘテロとして部長に接しようとする点だ。いわゆるBLを扱った作品の中では現実では考えられない程の速いテンポで関係が深化することもあるのだが、「おっさんずラブ」ではそういった人間同士が触れ合っていく経緯を省いて男性同士の恋愛模様のみを描くことはしない。それは恐らく「おっさんずラブ」が描きたいのが、愛するということはどういうことなのかということや、自分が誰かを愛しているという事に気付く過程を描きたいからなのだ。それは、今までずっとヘテロであったはずなのに同性である春田を好きになったことで長年続けてきた夫婦生活を解消する黒澤や、報われない片思いであったとしても春田のことを想い続ける後輩の牧、そして黒澤や牧、幼馴染のちずとの関係を通して自分はどうしていきたいのか苦悩している春田自身に色濃く表れている。彼らはヘテロだとかゲイだとかバイだとか関係なしに、誰かに好意を抱いた一人の人間として悩み、決断をしていくのである。そこではキャラクター設定や脚本ありきで作られた程の良い「商品」が押し出されているのではない、つまり結末が先にあるのではなく、自分はどうしたいのかという葛藤の過程が先にあってから結末が決まっていくのだ。

 

それと同時にもう一つ好きなところがある。それは主人公であるはずの春田が恋愛感情に疎く、自分を取り巻く恋模様に苦悩しているところだ。

 

家事ができないうえにだらしない春田は、家事ができるという理由で後輩の牧とルームシェアするが、一緒に住んでいてもなお春田は牧からの好意に気付くことはない。牧から告白された後も、牧のことをはっきりと恋人だと意識してはいないようで、その曖昧な態度のせいで何度も牧を傷付けてしまう様子が描かれている。その為に牧は二度も春田の家を出て行こうとするのだが、その時に悩む春田の姿に何故か私もどこか共感してしまう。

 

私は恋愛的な意味で誰かを好きになったとはっきり意識したことが今までに一度もない。恐らく、私にとって「恋人として好き」ということと「友達として好き」ということがきっちりと区別されておらず、漠然と誰かに対して好意を抱いているだけなのだ。だからこそ私は、恋愛ドラマでよく描かれるような、誰かに一目惚れする姿や誰かに積極的にアタックしにいく姿が経験的によくわからないし、共感することもできない。恋愛ドラマで当たり前のように描かれるそういった姿と私とは別の世界での出来事でしかないのだ。しかし「おっさんずラブ」の春田は違う(と思っている)。

 

上述の通り、最初の方の彼は今までに同性を好きになったことがなかったために、牧から告白されても牧を恋人だと意識することはできていないのだが、牧の優しさに触れるにつれて、無意識のうちに春田は牧のことを周りの人間とは少し違った特別な存在だと思うようになる。それは、春田の家を出て行こうとした牧を必死に引き止めたり、牧と武川の仲にうっすらと嫉妬したりしているところにも表れているだろう。にもかかわらず、春田の思いは恋愛感情といったはっきりとした言葉で表せるものではなく、あくまでももっとぼんやりとしていてなんとも言えないような曖昧な思いでしかない。彼は自分自身でもきちんと認識していないであろう曖昧な感情を、苦悩しながらも愛へと育て上げていく最中にいるのだろうが、この彼の抱いている感情と私が周囲に抱いている「特別な好意」がとても近しいものなのではないかとドラマを観ていて感じたのだ。「好きだ」とも「愛している」とも言えない、モヤモヤした感情を抱えながら春田は生きている。私もまた何とも言い難い消化不良の感情を抱きながら生きている。

 

そうした、はっきりと形容しがたいモヤモヤした感情を抱きながら進行する恋愛ドラマはとても新鮮で、恋愛ドラマなんてどれも紋切り型だと思っていた私は衝撃を受けてしまった。このドラマには登場人物においても、視聴者においても、誰も除け者がいない。「おっさんずラブ」は、愛とは何かを自分なりにわかっている人も、そうでない人も、全ての人を対象とした寛容的で「優しい」ドラマなのだ。

 

ご祝儀袋を差し出す日

池袋を友人二人とぶらぶら歩いていたら、片方の友人Aが言った。

「あの、あの、実は私、彼氏いるんです!」

私は既にそのことを知っていたのだが、もう片方の友人Bはそのことを知らなかったらしく、軽いショックを受けていた。友人Aの話によると、春休み中に数日間旅行したついでに彼氏の家に行ったとのことだった。

 

友人Aに恋人がいることに衝撃を受けていた友人Bとは別の部分で、私もまた友人Aの発言に衝撃を受けていた。

「(彼氏の家に行くってどんな感覚なんだ?)」

友人Aはどんな感覚で恋人の家に行ったのだろう。恋人の家は関東圏から遠方にあるらしいので、週末にふらっと立ち寄る感覚で行ったわけではないだろう。友達の家に遊びに行くくらい気軽な感覚で行ったのか、それとも将来を見据えながら行ったのか。私には恋人の家に行く感覚がどういうものなのかわからないし、その感覚はどういったものであれしっくりこないのだろう。ただ、友人Aの発言を聞いた時に感じた奇妙な違和感が残っているだけだ。ともあれ、そうやって家にまで行ける恋人がいる友人Aは(その点に関しては)幸せなのだろうし、幸せであってほしいと願っている。

 

それから少し歩いた後、昼食を取っている時に友人Bが言った。

「恋人なんてもうすぐできちゃいますよ、グイグイくる後輩がいるからね」

ああ、その時がいつか来るのは解っている、というよりも恋人ができるのを友人として楽しみにしているんだから早く頑張ってくれ、とおくびにも出さずに、心の中でぼそっと呟いた。結婚式で幸せそうな表情をする二人を想像しながら食べる蕎麦は不味くはなかった。

 

 

[2018.4.12     追記]

この件を違う友人たちに話したら、何故そこまでショックを受けているのかと不思議がられたので、その理由を考えてみることとした。一番大きな理由としては、友人Aが恋愛にさほど興味なさそうに見えるからかもしれない。彼氏ができたと聞かされた時には私も驚いたものだ。興味がなさそうに見えるから、そうやって段々と男女の仲を深めていく様子に驚いているのだろう。そのうえ、私は恋愛をしない/恋愛に興味ない人間として彼女に期待していたという側面もあるのかもしれない。私は「恋愛をする」ということが未だにはっきりと理解できずにいる。だからこそ恋愛をしない同じ仲間だと彼女に対して勝手に期待を寄せていて、その期待が裏切られたからショックを受けているだけなのかもしれない。何はともあれ、彼女が相手の男性とうまくいって、幸せになってほしいと思う。

空白の1ドット

私は時々、帰途の途中にある想像をよくする。「今日のご飯は何だろう」とか「家に帰ってから何しようかな」とか、そんな他愛ないことを考えながら歩いていると、突然道路が陥没して、その穴の中に落ちてしまうのだ。穴は正方形で、中は真っ暗、さほど大きくもないうえにその穴が生まれるのは決まって夜なので、真っ暗な穴と夜の境界線が混じり合ってしまって、落ちた本人以外は誰も穴の存在に気付かない。突如として私を吸い込んでいった真っ黒な1ドット、ディスプレイに浮かび上がる死んでしまった黒い点、世界をレンダリングする際にできてしまったバグの穴。穴の中には何もないのにむなしさだけが詰まっていて、私もまたむなしさのひとかけになりながら、穴の中を際限なく落ちていく。

 

 

半年前、私はチェンマイのドイステープ寺院を訪れていた。ドイステープ寺院はチェンマイ旧市街から数十分ほどの、旧市街北西にある山に建てられた上座部仏教の寺院であり、観光客はもちろんのこと地元のタイ人もよく訪れているそうだ。雨季も終わり際であったとはいえ、山腹にあるために天候が変わりやすいのか、私が訪れた時には雨が降っていた。

寺院が建っている山の途中まではソンテウという乗り合いバスで行けるが、寺院に行くためにはソンテウを途中で降りて、そこからロープウェイで行くか何百段もある階段を登らなければならない。ソンテウの時間の関係上、行きはロープウェイで行くことにした。

 ロープウェイを降りてから3分ほど歩くと、開けた場所に出た。その広場のような場所には建物が並んでおり、中心の小高くなっている場所に仏塔がある。だがその広場のような場所から仏塔は見えず、仏塔へは靴を脱いで素足で行かねばならないが、その時は雨が降っていたために濡れた地面に足を下さなければならなかった。少し前に猛烈に降り注いだ雨のために、タイルのようなものが敷かれている地面の上には薄い水の層ができていて、ピチャピチャと跳ねるその感覚が気持ち悪くもあり、開放的で心地よくもある。そうして寺院の中心にある仏塔へと向かった。

 階段をのぼった先で待っていたのは黄金の仏塔だった。色褪せることなく黄金の輝きを放ち続ける塔に、塔を取り巻く黄金の釈迦の像、古の僧侶たち。小雨が降り、雲が立ち込めていたとしても、黄金の塔は聳え立ち続けている。慈悲の手を差し伸べる釈迦の像の前で拝む人、この風景を忘れえぬものにしようとカメラを構える人、ガイドの案内を一言一句聞き逃さないように耳を傾ける人、様々な人が入り混じるこの状況でさえ、この黄金の仏塔は人々を許容し、たじろぐことのないように見える。それと同時に、揺らぐことのない厳格さもこの塔の奥底から滲み出てきているように思えた。

 仏塔の周りにある建物の一角で、心づけを渡して蓮の花を貰い、仏塔を眺めながらふらふらと歩いていると、ある一人の青年が目に留まった。気が付けばいつのまにか雨の勢いも強くなっており、地面の上には雨が溜まっているというのに、彼は全く意に介することなく黄金の釈迦の像の前に立っている。それもただ突っ立っているだけではなく、彼からは底知れぬ気迫と押し殺された情念の奔流が漂ってくるのだ。多くの人が止まない雨に見かねて屋根の下に留まっているというのに、彼は一人、降り続ける雨に鞭打たれている。すると突然、彼は地面にひれ伏して仏塔と釈迦の像を拝み始めた。地面にひれ伏し、立ち上がり、またひれ伏して立ち上がるのを繰り返している。地面に膝をつけば服は濡れてしまうだろうに、彼にはそんなことなど全くどうでもいいことで、きっと彼の視界には黄金の塔と像しか入っていないのだろう。もはや彼は自分自身のことさえ意識の外に追い出しているようかのようだった。まるで何かに憑かれたように、あるいは何かに導かれたかのように、彼は体を地面に付けて拝み、必死に何かを祈っている。痛々しいまでに激しい祈り、雨はまだ止む気配はない。やがて彼は地に伏して蹲ったまま動かなくなった。黄金の栄光にひれ伏した彼の前に、誰かを癒しているかのように手のひらを見せた釈迦は立ち、彼の横には供えられた蓮の花が積みあがっていた。彼は何のために、誰のために祈っていたのだろう。そして、その祈りは聞き届けられたのだろうか。手を差し伸べている釈迦は沈黙したまま、無慈悲にも黄金の塔は悠然と聳えていた。

 

 

今でも私はふとした瞬間に彼のことを思い出す。ある時はベッドに入って寝る前に、ある時は本を読んでいる最中に。彼は空白の1ドットの体現者であった。私が見ている世界の隅に、ほんの小さな穴を穿っていったのだ。あれほどまでに痛切で激しいものにこれから出会う機会はきっとほとんどないだろう。忽然と開けられてしまった穴の中には既に失われてしまった祈りと、それを包んでいるむなしさが見えている。二度と再生することはないであろう穴の中で、蓮を握りしめたまま私は震えていた。